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「宮沢賢治学会イーハトーブセンター 第15回大会」 参加報告

宮沢賢治学会会員 平野利幸(岩手県遠野市)

第1日 2004年9月22日(水) 午前10時〜 
    会場:花巻市NAHAN(なはん)プラザ

1.宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式(主催:花巻市)


●宮沢賢治賞 
「宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい研究・評論・創作など」 ・・・該当なし

●宮沢賢治賞奨励賞(3名)

受賞者の紹介等は「贈呈式パンフ」より

・小川達雄(おがわ・たつお)氏
<略歴> 1930年宮崎県宮崎市生。1947年盛岡中学校卒業。1950年盛岡農林専門学校林科卒業。1953年法政大学文学部日本文学科卒業。岩手県内に40年在住し、岩手県の福岡、盛岡第二等の高校を経て東京の目白学園、埼玉県の淑徳与野高校に国語科教師として勤務し、1994年退職。
<業績について> 宮沢賢治の中学時代に関わる短歌を軸に、『盛岡タイムス』に数年余にわたって掲載された中から、いくつかのトピックスに焦点を合わせて1冊に改めたのが『盛岡中学生 宮沢賢治』だが、労をいとわぬ博捜の成果によって、賢治の事跡の多くが明瞭になった。著書にまとめられなかった連載部分にも、さらなる発展の可能性が残されている。

・山根知子(やまね・ともこ)氏
<略歴> 1964年岡山県岡山市生。1987年早稲田大学第一文学部卒業。1992年日本女子大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、2004年博士(文学)、専攻は日本近代文学。 駒沢大学、日本女子大学、鶴見大学女子短期大学部の各大学の非常勤講師を経て、1998年からノートルダム清心女子大学文学部講師、2001年から同大学助教授となり現在に至る。
<業績について> 三部よりなる『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』だが、その「第一部 トシの生涯と信仰」「第二部 トシから賢治へ」を中心として、妹トシの生涯と思想形成の姿を、日本女子大学校関係資料をはじめとする同時代の客観的資料に基づいて探求し、兄妹の間にあった相互交流の実態を明らかにするために必要な新しい知見をもたらした。

・松澤和宏(まつざわ・かずひろ)氏
<略歴> 1953年東京都生。1978年早稲田大学文学部卒業、1988年3月筑波大学文芸言語研究科博士課程満期退学。1988年パリ第八大学にて文学博士号取得。大東文化大学文学部助教授を経て、現在名古屋大学大学院文学研究科教授。
<業績について> 「生成論」的研究の理論の構築と実践を目指した、我が国における最初の本格的試みと評すべき仕事だが、その重要な礎石の一つに宮沢賢治の草稿が捉えられた。生成論の本質を語る中で賢治草稿に触れつつ、生成論的研究の実践として「銀河鉄道の夜」の草稿に徹底的に取り組み、賢治の表現行為の本質に対する新たな探求の可能性を示した。

●イーハトーブ賞
 「宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい実践的な活動を行った個人または団体」

受賞者の紹介等は「贈呈式パンフ」より

・中村 哲(なかむら・てつ)氏
<略歴> 1946年福岡県福岡市生。1973年九州大学医学部精神科を卒業後、医局に残らず国立肥前療養所、大牟田労災病院に勤務。当時三池炭鉱爆発による脳障害患者に対する研修医として精神内科の勉強を積む。1984年日本キリスト海外医療協会の派遣により、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワール・ミッション病院赴任。ソ連進行によって起こったアフガン戦争が激化し、カイバル峠を主としてペシャワールへ流入してくる難民のためにハンセン病をはじめ、マラリアその他の感染症を含めた治療に当たるとともに、アフガニスタン側でも診療所を設営した。1998年、拠点病院としてペシャワール会医療サービス(PMS)病院を建設。この基地病院とアフガニスタン東部山岳地帯の3ヵ所(ワマ、ダエル・ビーチ、ダエル・ヌール)の診療所とパキスタン北部ラシュトの診療所で、日本人ワーカー5名とともに現地スタッフ(パキスタン人、アフガン人)120名は、総合医療を低料金で提供し、年間診療数は20万に達している。また、2000年7月からアフガニスタンをおそった旱魃被災地域での水源の確保(井戸、地下水路)再生事業に医療活動の一環として取り組み、2002年からアフガニスタン復興プロジェクトとして「緑の大地計画」を開始、2003年3月からは井戸掘りだけでなく、農業用水路確保のための灌漑用水路の建設を始めた。
 これらの活動に対して、1988年外務大臣賞、1996年厚生大臣賞、2002年日本ジャーナリスト会議賞等多数受賞。
<業績について> 1984年からパキスタンやアフガニスタン無医地区での診療活動を実践し、主に貧困地区の患者の無料診療を行なう一方、空爆下の国内避難民への緊急食料配給の実施、大旱魃に見舞われた民衆生活の再建と安全確保のために、井戸と水路の掘削と復旧にも従事する。
 現地からのレポートを中心とした著作も多数あり、激動する国際情勢や自然災害の下にあってなお揺るぎなく実践活動を重ねるにあたっての、世界と人間性に対する洞察に満ちた認識と知恵が示されており、民衆とともにあるその姿と滲み出るヒューモアには、宮沢賢治の精神に通うものがある。
・畠山重篤(はたけやま・しげあつ)氏
<略歴> 1943年中国上海生。宮城県立気仙沼水産高校卒業後、家業の牡蠣養殖業を継ぐ。海の環境を守るには、海に注ぐ川、さらにその上流の森の大切さに気づき、「牡蠣の森を慕う会」を結成。1994年より、岩手県室根山に漁民による広葉樹の植林活動、「森は海の恋人」運動を進めている。2004年まで、広葉樹50種、3万本の植林を行う。同時に、環境教育の手助けとして内外の子供たちを海に招き、体験学習を続けている。今まで招いた子供は、6千人に達した。「森は海の恋人」運動は、小・中学校の教科書にも取り上げられ、人間教育の重要な一翼を担っている。
 現在、牡蠣の森を慕う会代表。(有)水山養殖場場長。
 「森は海の恋人」運動において、1994年朝日森林文化賞、1999年「みどりの日」自然環境功労者国務大臣環境庁長官表彰、2003年緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰等、多数受賞。
<業績について> 氏は、三陸リアスの海辺、唐桑半島の閑静な入江でカキ・ホタテの養殖業を営む漁師。少年時代の海は豊かそのもので、多くの生物が生き生きしていた。ところが1964年にノリに異変が生じ、やがてカキも打撃を受けるにいたる。それをきっかけに、海の汚れは川や森と無縁でないことを知る。1984年にはフランスのブルターニュ地方、さらにスペインのガリシア地方のカキ産地を見学し、海と森が密接な関係にあることを目撃する。これを契機として、気仙沼湾に注ぐ大川の上流、室根山麓の広葉樹植林運動を発案、「森は海の恋人」を標語として掲げ、「牡蠣の森を慕う会」の代表となる。
 海・川・森の呼応を夢見る発想には、賢治童話の場面を想起させるロマンがある。さらに海辺に子どもたちを招いて体験学習も行うようになり、今では6000人の参加を数えるまでになった。これらの実践活動は、すでにすぐれたエッセイ集として結晶している。もし賢治が海の人だったなら、共通の発想を見せ、川へ、森へと世界を広げていったにちがいない。

●イーハトーブ賞奨励賞 ・・・・・該当なし

<感想> 
  今年はハプニングもなく、粛々と執り行われました(去年は正賞のクリスタルを壊しちゃった方がいましたので、今回は手渡す時に注意をしながら慎重にやってました)。メデタシ、メデタシ。が、「宮沢賢治賞(正賞)」に該当なしはちょっと寂しいです。奨励賞の山根知子さんの功績は充分「正賞」に値すると思いますが?今後に期待!ということで、是非山根さんには「正賞」もとっていただきたいと思います。ちなみに受賞の対象となったご本『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』は当「でくのぼう宮沢賢治の会」4月例会でも紹介され、私も買って読ませていただきました。感動いたしました。(サインをもらってくればよかった!残念!)
 「イーハトーブ賞」のお二人はさすがに実践者。「いい仕事してますねぇー!」これからも頑張って下さい。私も負けずに頑張ります!(何を?)
 ところで最近「自然を大切に」とか「自然との共生」といって実践している人たちも多くなってきて、世の中もやっとその方向に向いてきたように思うのですが? 例えは悪いかもしれませんが、NHKの朝の連続ドラマも前回は「イグネ」という米作りを通した自然と人間のありかたを大切にしていましたし、続いて今度は「阪神・淡路大震災」という大災害を通して、花や木などの緑・自然等はもちろん、本当に人間に必要なものは何か?と問いかけているのではないかと思いますが、どうでしょう?
 「イーハトーブ賞」のお二人からも特にそう感じられましたし、中村氏からは「子供の頃から親しんできた賢治童話、その言葉や精神がいつの間にか自分の中に宿り、知らない所で自分を律してきた。」「アフガンでの現地活動が実は『セロ弾きのゴーシュ』の軌跡であった。」というようなメッセージがあり、本当にこの授賞式にはどうしても出席したかった(他にも数々の賞をいただいているが、出席していない)と、残念がっていたようです。 畠山氏は「虔十」を気取っていると、ご自分でもおっしゃってました。

 

2.アトラクション
   南城小学校(羅須地人協会跡地のそば)4年生による呼びかけ(?)と歌
                  「雨ニモマケズ」「精神歌」「星めぐりの歌」など

<感想> 例年、授賞式の後のアトラクションは「いいですねぇ!」賢治さんの詩や歌、特にピュアな子供たちが歌うその歌声、正直あまり上手ではなくても感動を与えてくれます。 ステージ上の子供たちは皆緊張しながらも間違わないようにと一生懸命に歌っているその姿に、思わずハンカチを取り出して涙している花巻市長、見ちゃいました(みんな見てた) 最前列だったので、ステージの前にいた子供たち数人がちょっと驚いてました! なんか、いい感じ! 来年も楽しみ。

3.定期総会

<報告と感想> 例年通りすぐに終了と思いきや、お一人「理事会が勝手に補正予算を組むのはおかしい!規約にも無い!」と追求。理事会側は「花巻市からの補助金が大半を占める予算の都合上、会計年度を3月31日までとしており、総会の9月までの約半年間に行われる事業などがあるためにやむを得ない。」と釈明。どちらも御尤です。別に悪いことをしている訳でもないのに?と私だけでなく皆さん心配になったと思いますが、「規約の中に入れることを次回の総会に諮る」ということで落ち着きました。まずはよかった、よかった。でも、1時間近く予定をオーバーしてしまって、この後のプログラムにしわ寄せがいっちゃいました。

4.賢治研究リレー講演

(1)吉見正信(岩手県) 「―賢治「挽歌」へのたどり―」
  数人でサハリン旅行をしてきた土産話でした。みんなで「錆びた犬釘」を持ち帰ったとか???

「宮沢賢治賞奨励賞」受賞者3名
(2)小川達雄(埼玉県) 「うす陽のはざま」
  「賢治さんの思想の原型は、やはり中学時代からのもの。」というようなお話でした。

(3)山根知子(岡山県) 「妹トシをめぐる出会い」
  昨年の賢治没後70年の命日(9月21日)に『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』を出版できたのも、多くの人たちのおかげであり、演題の通り、初めて花巻に来た時(大学3年)から、出会った人々へのお礼のようなお話でした。 ステージに上がる時に思わず立ち止まって中央の賢治さんの写真に一礼した姿と、とても謙虚な方という印象を受けました。私が言うのも何ですが、トシからのアプローチという方向性は非常に重要だと思いますし、おかげさまで私の疑問も大分解けました。今後も大いに期待しております。

(4)松澤和宏(愛知県) 「『銀河鉄道の夜』の生成における共同性への問い」
  何度も書き替えられている賢治作品の生成過程を探求することは、確かにおもしろいと思います。が、残念ながら私には「生成論」なるものが、ちょっと難しいのですが?申し訳ありません。

5.イーハトーブ・サロン ―私と賢治―

  図々しくもまた今年もステージに上がってしまいました。予定時間をかなりオーバーしていましたので、中止になるかと(ちょっぴり期待して)思っていましたが、ちゃんと(?)やってくれました。が、6人が壇上に上がった途端「5分の予定でしたが、3分でお願いします。」とのこと。 急 に な ん て こ と を ! 幸い私は2番目でしたので、入沢康夫さん(この宮沢賢治学会ではどんなに偉い方でも「先生」と呼ばないことになっています。「いちばんばかで、めちやくちやで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらい」のだ!)がお話している間に何とか3分にまとめました。
  「「でくのぼうの生き方」のすすめ」という題で、賢治さんのまねを始めた私の体験(肉や魚を食べない玄米中心の食生活や、木や草花などへの「声かけ」と「リラ自然音楽」)からお話しましたが、やっぱり時間がなく途中(いいとこ?)で終わり、次回のお楽しみということにして、またまた来年もお話させていただこうかと・・・?もういい? 参加賞が「イーハトーブ図書券」から「花巻ガイドブック」に今年から変わったのは、ちょっぴり残念でしたが、また来年もよろしくお願いいたします。

6.会員交流・懇親会

  受賞者の方々や色々な方とお話や交流ができるので、毎年皆さん楽しみにしているようですが、どうも私はお話できるような知識も度胸もありませんし、直前に「普段は肉や魚を食べない」お話をしたこともあって参加したことがなかったのですが、よく見ると今回は「Menu」があって、「白い小麦のパンケーキ」や「干したりんご」「栃のだんご」「ばらの実」など、賢治さんの作品やエピソードにでてくる身近なものや岩手でしか味わえないものなど、割と肉や魚の少ない、又は使わない料理も結構多いようで、しかも「メニューに対するリクエストやご提案などありましたら、ぜひイーハトーブ館までごれんらく下さい!」とありましたので、是非来年はリラ自然音楽をBGMに、玄米を中心にした肉や魚を使わない料理など、「すきとほつたほんたうのたべもの」(?)を味わってみたいものです。


第2日 9月23日(木曜日・祝日) 午前10時〜 
     会場:宮沢賢治イーハトーブ館

7.研究発表(10時〜12時)
 @長山雅幸(岩手県) 「宮沢賢治の社会思想的研究の試み」

  経済思想史がご専門の先生らしく、賢治が「羅須地人協会」の活動で警察の事情聴取を受けた頃の世界的な時代背景(氏いわく「帝国主義と社会主義とのせめぎ合いの時代」)から、賢治の晩年の思想を検討していましたが、やはりこれは桑原啓善氏がその著書『変革の風と宮沢賢治』等で指摘しているように、「物質的・営利追求の唯物主義」の時代であったからこそ賢治は、(霊の存在を科学的に証明した「近代心霊研究」も同様に)「歴史と宗教の位置を全く変換」する、戦争の歴史から平和の歴史に変えようとした「革命家」だったのだと思います。
  ちなみに長山氏が「『雨ニモマケズ』手帳裏表紙に書かれていたチャイコフスキーは、音楽家のチャイコフスキーではなく、ナロードニキ運動の指導者N.W.チャイコフスキーではないか?」と問題提起(力説)していたことが、一番印象的でしたが?

 A横田由紀子(北海道) 「北海道における賢治の受容・・・更科源蔵と小田邦雄のかかわり」

  「北海道での賢治の受容を考える場合、その初期において、更科と小田の二人の関わりを考えることは大きな意味があると考えられ、・・・そのいくつかの点を取り上げ」た。

 B平岡弘子(大阪府) 「表現から見るジョバンニの自立」

  関西賢治ゼミで行った研究を紹介発表したものでしたが、『銀河鉄道の夜』第1次稿〜4次稿までの比較という、「こつこつとよくやりましたね。」という感じです。が、なぜ賢治さんは何度も何度も書き換えながらこの作品を書いたのか?に、もっと迫ってほしかったのですが、その辺の解明には、「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』作品論集」(石内徹編)あたりがおすすめですが?
  ところで、1〜2次稿あたり(?)では、ジョバンニとカンパネルラのどちらの言葉かわからない部分があると論議にもなっていたようですが、賢治さんは「1ヶ月に3000枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから」(『兄のトランク』)、やはり当然「自動書記」のようなかたちで書いたと思われますので、それは「わたくしにもまた、わけがわからないのです。」と賢治さんも言うでしょう。

 C倉持純子(千葉県) 「宮沢賢治<花鳥童話>論」

 さすがに修士論文だけあって、とてもよく分かり易くまとめてあったと思います。しかも、「万物を司る<宇宙意志>の存在を同じように感じ取りながらも、賢治はそれを自らの内にも生起するものだと考え、あらゆるものの幸せを希求したのに対し、アンデルセンは、宇宙の意志が自分のそばにあって、常に自分自身を見守り、幸福に導く存在だと信じていた点で、異なる認識を持っていた」とはっきり結論付けていたあたりは、何か「いい感じ!」

8.ポランの広場 ―宮沢賢治のうたコンサート―
    うた:竹田恵子(歌手)  ピアノ:林 光(作曲家)

 ◎ポラーノの広場のうた
 ◎語りと即興演奏による童話「烏の北斗七星」
 ◎道ばたの黒地蔵(花巻の子守歌)
 ◎宮沢賢治・詩/林 光・曲による「うた」たち
   ・歩行について ・のはらのまん中の 他

 <感想> さすがプロだけあって、ほとんど一人芝居のようなステージで1時間半(途中休憩あり)、観客を飽きさせないのはさすが!(私はちょっと寝てしまいました。ごめんなさい。) でも、前日の子供たちの歌のように感動しなかったのはどうしてでしょう?同じ賢治さんの詩と歌なのにどうしてでしょうねえ???

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<全体の感想>
 今回の大会は特に山根知子さんと倉持純子さんの、お二人がとても印象に残りました。どちらも日本女子大学出身(山根さんは大学院)ということで、賢治さんの妹トシさんが学び、影響を受けた大学ですので、やはり何かいいものがありそうな感じです。今後のますますのご研究を期待しております。
 来年はまた「イーハトーブサロン」でのスピーチと、今度は僭越ながら「研究発表」にも応募してみようかと思っております。実は今「佐々木喜善(『遠野物語』の話者)と宮沢賢治」についてちょっと調べていますが、意外な発見もありました。 乞う、ご期待(?)

 

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